政策研のページ 日常生活で取得されるデータの活用を見据え リビング・ラボ(Living Lab)の取り組み
医薬品開発においては、これまで主に医療機関や研究機関で取得される医療データ(臨床検査値、画像、診断所見等)の活用が中心でしたが、「医師主導の医療」から「患者中心の医療」へとパラダイムシフトが進展する中※1、患者さんの状態をより詳細に把握・理解することへのニーズが高まっています。患者さんの実生活に即したデータを収集・解析することや、病気に罹患していない健常な人(市民)からもPHR(Personal Health Record)を取得することが予想される中、ユーザー(市民)を交えたイノベーション活動であるリビング・ラボ(Living Lab)について政策研ニュースNo.61で取り上げた内容を紹介します※2。
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※1日本製薬工業協会「患者の声を活かした医薬品開発 製薬企業によるPatient Centricity」
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※2医薬産業政策研究所、「医療健康分野のビッグデータ活用研究会 報告書Vol.4」、(2019年5月)
リビング・ラボ(Living Lab)とは
リビング・ラボに定まった定義はなく、多くの考え方が提唱されていますが、一般的に「日常生活の場でオープンイノベーションを起こす共創の仕組み」のことを言います。物理的な拠点が存在することもありますが、デジタルでつながれたネットワークや空間のことを示す場合もあります。
リビング・ラボは1990年代前半に米国で取り組みが始まり、2000年以降、北欧諸国(フィンランド等)を中心に急速に拡大してきており、現在は400件以上のリビング・ラボが全世界に存在しているといわれます。欧州ではEuropean Net Work of Living Lab(ENoLL)※3と呼ばれるリビング・ラボのネットワーク組織が構築されており、ENoLLに登録されているリビング・ラボは、2020年9月現在全世界で150件以上あります。ENoLLに登録されているリビング・ラボを有する国(2015年時点)を図1に示します。
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※3European Net Work of Living Labのウェブサイト(2021年1月21日アクセス)
ENoLLに登録されているリビング・ラボを有している国は欧州以外にも米国、中国、インド等さまざまな地域があることがわかります。日本国内でもすでにさまざまな地域でこのような場が生まれています。
リビング・ラボではユーザー(市民)だけでなく、サービス開発を目指す企業、地域の課題解決を目指す自治体やNPO法人、地域に関する研究を行う大学等の研究機関等、さまざまなステークホルダーが参加することとなります。ENoLLに加盟しているリビング・ラボでの割合は図2の通り、大学(37%)、研究機関(33%)、行政(7%)、企業(23%)でした。
リビング・ラボの活動領域についても、ENoLLに加盟しているリビング・ラボの調査結果が2015年に報告されています(図3)。
活動領域としては主に高齢者の健康管理や生活向上のための活動であるHealth & Wellnessが52%と一番多い割合を占めており、次いでSocial Innovation(41%)、Social Inclusion(39%)、Smart Cities(33%)、Energy(20%)という結果でした。現状のリビング・ラボは、企業が新製品や新サービスの開発につなげるというよりは、地域の課題についてユーザー(市民)も参加することで解決しようとする目的が多い傾向にあります。
リビング・ラボの活動としてはいくつかの類型があり、
- (1)技術のショールーム:テクノロジーを展示する型
- (2)TestBed:(1)の型のように展示したものを見るだけではなく、実際に体験できる実証実験の型
- (3)生活の場(家等)での実践:実際に課題のあることに関しヘルスケア・テクノロジーを導入、コンセプトを試すために生活の場に取り入れる型
- (4)生活に根づいたプラットフォーム(持続的な):生活の場での長期的なリビング・ラボという点は(3)と変わらないが、多様なステークホルダーを巻き込んで行われる持続的な仕組みの型
- (5)相互補完的な多文化プラットフォーム:リビング・ラボは、社会文化的背景に大きく影響を受けるが、よりスケールしやすい形の相互補完型
以上の5つとなります※4。
製薬産業としては(2)や(3)の型で、モバイル機器やICT技術の試行等を行い、患者さんや生活者のさまざまなデータを取得し、活用していくケースが想定されます。たとえば、リビング・ラボの名称は使用されていませんが、2016年からファイザー社とIBM社は家の中でのパーキンソン病患者の動きを把握し、治療薬の効果を検証する取り組みを行っています。設置された家の中では、冷蔵庫の取っ手やキッチンの食器棚から椅子やベッドまで、パーキンソン病の重要な指標である患者さんの動きの微妙な変化に反応するセンサーが取り付けられ、患者データをリアルタイムに収集し、病気の症状を24時間体制で把握できます。この取り組みでは、日常生活に即したリアルタイムに収集したデータを分析し、パーキンソン病の進行および医薬品の有効性評価ができるかを検証しています※5。この活動は(2)の類型に近いものと言えます。
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※4Public Intelligenceのウェブサイト(2021年1月21日アクセス)
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※5
リビング・ラボ 国内外の活動
ヘルスケア領域における国内の活動としては、国立研究開発法人産業技術総合研究所(産総研)が取り組んでいる「産総研リビングラボ」が挙げられます。ここでは、(1)問題を明確化するための観察技術、(2)見守り支援技術、(3)生活システムデザイン支援技術等の人工知能技術を用い、生活機能変化者の生活支援のための実証実験を行っています。実際の現場を想定した仮想実験・仮想環境で技術開発・検証する基礎研究から、サテライト・リビング・ラボ環境との連携、介護施設・病院等の現場や実際の地域と連携して、実環境において検証や効果評価(インパクト評価)を支援する実証研究までをシームレスにつなぐ、国際的にも類のないリビング・ラボ環境を構築しています。
同様に産総研が取り組んでいる「柏リビングラボ」では、キッチン、風呂、トイレ等を含む模擬生活環境や、温度湿度を調整できる人工気候室を保有し、ロボット介護機器開発・導入プロジェクトにおける多くのメーカーへの開発支援を通じて、ロボットの安全性や効果・性能の評価に関して取り組んでいます。多様な意見を集めるため、介護ロボットの研究者に加えて、柏地域の介護関係者および住民参加型のワークショップも開催しています※6。
海外では欧州で活動が盛んであり、今回はその中でも国と一体となって活動をしているデンマークの活動について取り上げます。
北欧のデンマークのコペンハーゲン市では、デンマーク工科大学(DTU)、コペンハーゲン大学等のアカデミアと、メディコンバレー※7、コペンハーゲン・ヘルステック・クラスタ※8といったライフサイエンス・ヘルスケア関連クラスタを背景として、リビング・ラボの類型(2)に該当するTestBedや、(3)に該当するヘルステック・イノベーションに特化したリビング・ラボが多く存在しています。
これらコペンハーゲン市内にあるリビング・ラボ施設が連携したのが「Living Healthtech Lab※9」であり、パーソナルレジストリ(電子健康データ)に遠隔・在宅医療、e-health等を組み合わせたテストハブに、ITリテラシーの高い市民が参画することで、イノベーションの創出を試みています。
同じくデンマークのオーデンセ市は、大学、企業、地域住民を巻き込んだリビング・ラボ「CoLab」の実践を進めています。同市では大規模な新病院の建設計画が進行中で、医療・福祉に関連する多くの新技術が採用される見込みですが、CoLabは、その新しい医療の場で求められる技術やサービスを模索する場になっています。ここでは、医療機器やIoT機器等の実証実験が行われています※10。
また、北欧のコペンハーゲン、ヘルシンキ(フィンランド)、レイキャビク(アイスランド)の3都市が参加し、高齢者や健康・ウェルビーイングに特化した北欧地域のリビング・ラボの強力なネットワークを集約する目的で「Nordic Business and Living Lab Alliance」と呼ばれるヘルスケア分野のリビング・ラボの国際連携も行われています※11。
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※6柏リビングラボのウェブサイト(2021年1月21日アクセス)
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※7メディコンバレーのウェブサイト(2021年1月21日アクセス)
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※8コペンハーゲン・ヘルステック・クラスタ(2021年1月21日アクセス)
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※9A living healthtech labのウェブサイト(2021年1月21日アクセス)
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※10CoLab Denmarkのウェブサイト(2021年1月21日アクセス)
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※11Nordic Business and Living Lab Allianceのウェブサイト(2021年1月21日アクセス)
リビング・ラボのメリット・デメリット
日本も含めさまざまな地域でリビング・ラボの活動は行われていますが、リビング・ラボで活動することのメリットをステークホルダーごとに記載します。
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1)ユーザー(市民)
リビング・ラボの活動を通じて、問題に対して自分の意見を伝えることができるというのが大きなメリットの一つとなります。またリビング・ラボの活動を通じ、当事者自身の生活の質の向上および当事者への価値還元につながることが考えられます。
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2)企業
従来のインタビューやマーケティングリサーチと比べて、ユーザー(市民)との関係が深くなることが想定され、効率的かつ効果的に、これまで企業が把握できていなかった潜在的なニーズを把握することができます。従来は製薬産業が得ることが難しかった健常者のデータ(バイタルや日常生活)等を活用することが可能となり、医薬品の開発だけでなく市民のヘルスケア向上に向けた取り組みにもつなげられることが期待されます。さらには、企業活動とユーザー(市民)との関係が深くなるため、長期的な関係性を構築することも期待できます。
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3)行政
リビング・ラボで取り扱われる社会課題は、行政が解決しなくてはいけない課題であることが多く、ユーザー(市民)が意見を出し合うことで、行政側が認識していなかったような地域の問題が明確になります。また、行政がかかわることにより、多くのユーザー(市民)に行政施策の認知を高めることが可能となります。中長期的な地域計画の策定に、ユーザー(市民)の意見を組み込むことで、市民の理解を得やすくなり、直近の当事者ニーズのみに左右されない長期的な地域力の向上を図ることができます。
一方、リビング・ラボを活用するうえでのデメリットも存在します。リビング・ラボには、上述した通りさまざまなステークホルダーが参加することとなります。ステークホルダーが多くなることにより、結論がまとまりづらいことが挙げられます。また、企業が取り扱う情報は、機密事項が含まれることも多くあり、市民が参加するリビング・ラボでは情報漏洩等、情報のコントロールが難しい面も出てくる可能性もあります。
まとめ
製薬産業が医療用医薬品を開発するにあたり、治療へのニーズや治療効果に関する情報は、医療機関が行う治療、臨床試験や臨床研究を通して入手しており、個別の患者さんと直接コンタクトをとることは少なく、その必要性も今までは小さいものでした。そのため、リビング・ラボのような取り組みに参加せずとも医療用医薬品の創出は可能でした。しかし、製薬産業が治療に対するアプローチだけでなく、予防・先制医療や介護等、市民のヘルスケア全般にかかわっていくことを考えると、医療機関にある患者さんのデータのみならず、健常者も含めた市民のデータを有効的に活用する必要性が出てきます。すでに、臨床試験の現場ではePRO(患者報告アウトカム電子システム)の活用等、日常に近い患者さんのデータ取得の動きが活発化していますが、健常者のデータを活用するうえで、ユーザー(市民)の研究への関与が高いリビング・ラボのような仕組みを用い、「日常に即したデータの活用」を考えていくことも重要と考えます。
(医薬産業政策研究所 主任研究員 中塚 靖彦)